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隊長ブログ

最近読んだ本

読後感想文

「調査報道がジャーナリズムを変える」



読後感。

警察と検察の捜査は、最初からストーリーありきだという。
検察官の作ったストーリーに沿わない証言は無視される。
密室で罵倒され、脅され、時には優しい言葉で、誘導される。
検察のストーリーに合致した自供のみをひたすら迫り続けてくる。
それでも身に覚えがないと容疑を否認し続けるとどうなるか。
逮捕された人物は保釈されず、起訴された後も延々と拘留されることになる。
読後感想文_d0098363_16092788.jpgではどんな人たちがそういう証言をしたか、代表例を挙げれば、
元大阪高検の公安部長だった三井環氏、元特捜検事の田中森一氏、元公安調査庁長官の緒方重威氏などだ。
つまり、検察の内部にいた人たちがそう証言している。

刑事訴訟法では、裁判所は原則として保釈を許可するよう定めている。
しかし、一方で刑事訴訟法は、保釈を許可するにあたって、検察官の意見を聴くよう求めてもいる。
その検察は容疑を否認している被告に対しては”証拠隠滅の恐れあり”などと異議を突きつけ、裁判所も
それを追認してしまう例が圧倒的だという。

実際に証言した人の例だと、佐藤優氏(元外務官僚)512日、鈴木宗男氏(国会議員)437日、三井環氏324日、細野祐二氏190日が拘置所に長いことつながれている。
これはもう異常としか考えられない。
取調べをするのに、どうして一年以上も必要なのか、裁判で犯人になったわけでもない人物に対する処遇として妥当だろうか。
これだけ拘留されれば、どんな人でも仕事や収入は断たれ、生活基盤はめちゃくちゃになる。
そしてなにより、精神的な苦痛に耐えられない。

こういう圧力は容疑者の関係者にも及ぶ。
多くの人たちが参考人として呼ばれ、取調べを受ける。
時には別件での逮捕や強制捜査などの脅しが入る。
特に検察捜査の対象となる、政治資金がらみの事件などは物証が乏しいので、関係者の供述が立証のカギになったりするので、
取調べを受けた人のほとんどが検察の意のままの調書にサインさせられてしまう。

「調書にサインしない人なんて1000人に一人もいないんじゃないか」
と証言している人もいる。

拘留が長く続けば人はどう考えるか
「ここはいったん検察側の調書にサインしてしまおう、保釈を得て、裁判で真実を訴えれば裁判官はきっとわかってくれる」
しかし、この考えは甘すぎる。
日本の裁判は検察の調書に重きを置いて進められる。
裁判で無実を訴えれば「反省の情がない」と量刑が重くなることもあり得るのだ。
弁護側は、供述調書の矛盾を突き、裏づけとなる証拠を明示しなければならない。

ところが、検察が集めた証拠物件は、基本的に検察がすべてを独占し、仮に被告人の無実を示唆するような証拠があったとしても、弁護側がそれに気づいて、開示請求し、裁判官がこれを認めない限り、永久に隠されてしまう。

本来ならば、公判前の段階ですべての証拠が弁護側にも開示されて、同じ証拠に基づいて検察側は被告の有罪を、弁護側は被告人の立場に立った立証活動を繰り広げるのが原則のはずだ。
しかし、現実はそうなっていない。
すべての証拠は検察が独占し、弁護側は容易に近づくこともできない。

狭山事件をご存知だろうか。
1963年起きた誘拐殺人事件の犯人とされた石川一男氏は、1977年に無期懲役が確定し、31年間も刑務所に入れられ、現在は
仮釈放されて社会復帰を果たしている。
これまで多くの著名作家やジャーナリストが冤罪を指摘していて、石川氏も再審請求を求め続けている。
この事件に関しても検察は今もいくつもの証拠を隠し続け開示を拒んでいる。
開示すれば、石川氏の無実が裏づけられてしまうからとしか思えない。
発生から50年以上経った事件の証拠すら、隠され続けているというのが、日本の刑事司法の現実だ。

これはまったくおかしい現実だ。
警察や検察が集めた証拠部件は多くの人手や必要経費をかけたものだ。
その費用はすべて国民が負担している。
つまり、証拠物件はすべて等しく国民に開示する義務があるはずだ。
有罪か無罪か、判決も出ていない人間にも等しく証拠開示しないで行われる裁判が、公平と言えるはずもない。
検察だけが独占する権利などどこにもないはずだ。

日本の裁判の有罪率は99.9%だということをご存知だろうか。
いくらなんでもこの数字は異常な高さではないだろうか。
つまり、裁判になれば被告は必ず有罪になるということだ。
勝訴などいうのは、期待するほうがおかしいとさえ言える。

今の裁判は、検察の意向に沿うだけの”装置”に過ぎない。
従って、検察が起訴するかしないかが事実上の”判決”となってしまっている。
裁判所はせいぜい”量刑を決めるだけ”のものでしかない。

ひとつの例を挙げれば、警察が申請する”礼状”がある。
逮捕礼状とか家宅捜査礼状だ。
これには裁判所の許可が要る。
果たしてその却下率はというと、ゼロコンマ数%である。
つまり出せば、許可されるという自動券売機みたいなものとなっている。
礼状の中身のチェックなどはされていないことがわかる。
礼状が降りない確立は1000件のうち1件というのが現実だ。


最近の例では、障がい者向け郵便割引制度不正事件で逮捕起訴された村木氏の場合、彼女は証言している。
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「私が事件に関与したという直接の記述がある。同僚らの調書だけで30~40通もある。大変ショックでした。
私だけが記憶喪失になってしまったのかと思いました。調書は非常に整合性が取れていました。」
検察のターゲットにされた場合、ストーリーを作り上げ、当人の周辺関係者も事前にリストアップされている。
そして任意に出頭を求め、検察の意に沿った調書を作り上げ、証拠とし、「お前の同僚はこう言っているぞ」と本人に迫る。
拘留されていれば、本当かどうか同僚らに確認することはできない。
この事件の場合は、検察がフロッピーデイスクの改ざんが明らかになり、村木氏は無罪となる。
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東京地検特捜部と聞くと、市民の意識は「不正を暴く正義の味方」のイメージがある。
それを裏付けたのはリクルート事件である。
1988年リクルート社が子会社の未公開株を使って、政財界の要人たち多数が濡れ手で粟の大もうけをした事実。
リ社から44人の政治家に23億円ものカネがばら撒かれ、政治家、財界人、役人20人が起訴され、全員有罪となった事件。
そして時の竹下政権が崩壊した事件である。
この事件の発端は、朝日新聞川崎支局の、入社1~2年目の新人記者の取材からだった。(特捜部は新聞報道で捜査に着手した)
当初は、川崎市役所の助役がリ社から賄賂を受け取っていたというものだった。
検察特捜部が捜査に乗り出し、あっというまに中央政財界の事件へと発展した。
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助役の疑惑と並んで、朝日新聞川崎支局では、中央政界の森喜朗(当時元文部大臣 その後首相に就任)が、リ社から未公開株をもらい大もうけをしている事実をつかんだ。
支局員は世田谷の森邸に張り込み、夜ほろ酔いで車から降りてきた森に聞いた。
森は、「ああ、もらったよ、江副君が、近く公開するから、多少の小遣いになるだろうと言ってね」
記者はあまりにもあっさり認めたので拍子抜けさえ覚えた。
本来なら、すぐ記事にすべきだったが、当時の担当デスクはこう考えた。
「森のこの証言を報道すれば、きっと他の政治家には逃げられてしまう、もっと確たる証拠を集めてから一網打尽にしよう」
森へのインタビューの数日後、産経新聞にはこういう記事が載った。
「森代議士も受領 近く公開するとは知らなかった」という森本人のコメントが載っている。
朝日新聞の記者の録音テープには、「近く公開するから多少の小遣いにはなりますよと江副君に言われた」と録音されている。
つまり森は翌日、事態の深刻さに気づき、普段懇意にしている産経新聞の記者を呼んで書かせたということだった。
朝日新聞は翌日、録音テープの証拠を元に、産経の記事に反論した。
しかし結局、森は起訴されなかった。(録音テープは今も保管されている)
いずれにしろ、このリクルート事件で検察特捜部の威光は知れ渡り、市民の信頼は一気に高まった。
読後感想文_d0098363_16261850.pngリクルート事件は、メデイアが調査報道の重要性に改めて気づいた事件だった。
同時に、メデイアは検察批判は侵してはならない、という暗黙の了解ができあがった。

「調査報道」のさきがけはあのウオーターゲート事件だ。
時の大統領を辞任にまで追い込んだ記事は世界中が驚愕した。
日本の先駆者は1976年に発表された「田中角栄研究 立花隆」だ。



検察と裁判所への信頼は揺らぎ始めている。
それは、検察の裏側を証言し、それを記事にする記者がいて、報道する機関が存在するからだ。
今、求められているのは裁判所への冷静な取材だと思う。
冤罪となった人たちは裁判官の判決によって人生を狂わされた。
メデイアは裁判官へのインタビューはほとんど行っていない。
なぜだろう。
難しい試験を突破した超エリートだから、一般人とは違う、裁判官の下した判決は正しい。
こういう認識が常識になっている。
まるで江戸時代のお上(おかみ)のような認識だ。
裁判官は国家公務員であり、市民の納税によって生活は成り立っている。
最高裁で冤罪が確定したら、せめて謝罪のコメントを出すべきだろう。
人の人生を狂わせて、一言もないのはおかしい。
裁判官の個人名で出せ、ということではない。
最高裁の長官名でいい。
組織の長としてそれくらいはやるべきだ。
そうでなければ、裁判所がよく使う”人道的に許されない”という言葉を使う資格もない。




こういう実態だから、取調べの可視化は全面的に認められなければならない。
一部可視化では必ず問題が起きるだろう。、
警察・検察の抵抗は相当なものだろう。
供述調書に重きをおく現在の公判の進め方は、問題がないとはとても言えない。
改革の余地が十分ある。

検察が独占している証拠部件も、原告、被告の両者に等しく開示すべきだろう。
逮捕、拘留、起訴、公判 判決の手続きに疑問を持つ市民は少数だろう。
普段、まったく縁のないことだからだ。

事件・事故ばかりを伝えるニュース報道ではだめだということだ
国民は、取材報道の重要さをもっと認識すべきだろう。
それにはメデイアへの厳しい視線も必要だろう。
記者が記者であることをもっと要求するべきだろう。
真実を伝えることが彼らの使命だからだ。



プライバシー侵害、個人情報保護などは市民を守るためのものであるはずだ。
しかし、一方で秘密保護法案やマイナンバー制度は、時の”権力者が市民を管理する”のに都合のよい側面も孕んでいる。
調査報道の環境はますます厳しいといわざるを得ない。
記者の取材に対して、個人情報を盾に取材拒否が簡単にできる環境になっているからだ。

警察と検察はウソやでっち上げをする、という事実は存在する。
ウソやでっち上げで、今も刑務所にいる受刑者も存在するだろう。
隠れるようにひっそりと生活している冤罪被害者・遺族も存在する。
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テレビ・新聞のニュースを鵜呑みにしてはいけないことだけは確かだ。
森氏のように記者を呼んで、自分に都合の良い記事を書かせる国会議員もいて、それでも内閣総理大臣になれるわけだし、それに応じる恥知らずの記者もいるのだから。




by 2006taicho | 2015-12-26 12:54 | 最近読んだ本 | Comments(0)

おかしいことはおかしいと言う


by rei7955