「調査報道がジャーナリズムを変える」
田島泰彦 山本博 原寿雄/著 花伝社 発行2011.6.3
この本に掲載された一部を紹介します。
新聞報道の実態を知っていただきたいと思います。
また、現代の「テレビ・新聞の報道」についてどういう姿勢が大切か考えるヒントになればと思います。
足利事件。
この事件は、検察も裁判所も誤りを認め、頭を下げた稀な事件だ。
別のページには受刑者の証言が載っている。
「刑務所にいれば大体わかる、毎日生活をともにしていればわかる、まだまだ冤罪はありますよ」
田島泰彦 山本博 原寿雄/著 花伝社 発行2011.6.3
この本に掲載された一部を紹介します。
新聞報道の実態を知っていただきたいと思います。
また、現代の「テレビ・新聞の報道」についてどういう姿勢が大切か考えるヒントになればと思います。
足利事件。
1990年5月、父親に連れられて、足利市内のパチンコ店に来ていた幼女が行方不明となった。
翌朝、近くの渡良瀬川の河川敷の中州から遺体となって発見、犯人は現場から逃走していた。
一年半後、栃木県警が逮捕したのは、元幼稚園バスの運転手、菅家さんだった。
逮捕の根拠は自供と、DNA鑑定だった。
当時は、栃木県と群馬県で、連続して5件の幼女誘拐殺害事件が、発生していた。
反抗の時間帯、手口も似通っていた。
しかし、菅家さんは一件の容疑でしか起訴されなかった。
自供は曖昧、証拠は不十分だったからだ。
菅家さんは一審の途中から無罪を主張したが、最高裁で無期懲役が決定。
しかし検察は、これで少なくても3件の事件は解決したと、胸を張った。
2007年、日本テレビに所属していた記者は、「ACTION」という報道番組の企画に参加していた。
その中で記者は未解決事件を提案した。
それがきっかけだった。
菅家さんは獄中から再審請求を行っていた。
法務省は確定囚との面会は認めない。
したがって、記者の取材は獄中との文通だけが取材の糸口だった。
菅家さんは
「DNA鑑定をもう一度してくれえばわかります、犯人はほかにいます」
と訴えた。
記者は自供調書を暗記するほど読み込み、検証した。
調書では犯人は子供に
「自転車に乗るかい?」と声をかけている。
荷台に真美ちゃんを乗せて河川敷まで行き殺害したとなっていた。
しかし、取材を進めると、まだ四歳の真美ちゃんは、子供が座る専用のカゴが
なければ自転車には乗れないことがわかった。
そんな基本的な事実が、なぜ17年もたってからわかったのか、それは真美ちゃんの遺族が初めて記者の取材に応じたからだ。
事件当時、遺族はマスコミの取材で、家から一歩も出られず、洗濯物も十日以上取り込めない状態だった。
通夜や葬儀には遠慮のないカメラのフラッシュが飛んできた。
そんな辛い状況から何度も転居を繰り返していた。
記者は、遺族の知人を探し出し、手紙を転送してくれるよう頼み込んだ。
遺族にとっては、もう終わった事件だ。
傷口を開くような取材申し込みなど受け付けるはずもない。
手紙は誠心誠意の内容を綴った。
そして、ある日携帯の電話が鳴った。非通知だった。
真美ちゃんのお母さんからだった。
それは抗議の電話だった。
「もう終わったことなのに、何でいまさら・・・・・」
当然の抗議だった。
そういうやりとりをしながら記者は、自転車のことを話した。
すると母親は、「真美は自分では自転車には乗れませんよ、カゴのない自転車でなければ乗れません」
とはっきりと断言した。
実は、遺族は菅家さんの供述を知らなかった。
遺族は初公判を膨張するため、地裁に行くと、刑事に言われたという。
マスコミがたくさん来ているから帰ったほうがいい、プライバシーを奪われた夫婦は
素直にその言葉に従った。
その日から母親は、菅谷さんの供述や、判決内容を記者から知ることになった。
矛盾や捜査の不自然さは、母親がテレビカメラの前に立つ勇気となった。
事件から17年目に夫婦は現場検証に同行してくれた。
そして真美ちゃんが、専用のかごなしでは自転車には乗れないことを、今度は確信を込めて証言した。
その後、記者は日本テレビで、DNAの再鑑定を求める報道を続けた。
そして高裁でついに再鑑定の決定が出た。
菅家さんのDNAとブラウスについた血痕のDNAは違っていた。
まったくの別人だという鑑定が出た。
検察側はその鑑定方法についても、独自の鑑定を行った。
しかし菅家さんと同一のDNAは出てこなかった。
驚いたことに当時は、被害者である真美ちゃんのDNA鑑定もしていなかった。
母親は
「もし、菅家さんが無罪であるなら、早く軌道修正をしてほしい、捜査が間違っているんであれば謝るべきです。(捜査は)誰が考えたっておかしいでしょう・・・」
母親は検察官に向き合い、直接そう訴えた。
記者をそれを電波に乗せた。
放送から四日後、突然、菅家さんは釈放された。
母親が検事に伝えたあの言葉が、釈放につながったと、後で検事は母親に伝えた。
釈放の決定が出ると、マスコミは大挙して刑務所前に陣取り、上空にはヘリコプターまで旋回していた。
お上が間違えるはずがない、と言っていた記者たちだ。
菅家さんは冤罪ではないかと記事にしていた記者が、この中に何人いただろうか。
この事件は、検察も裁判所も誤りを認め、頭を下げた稀な事件だ。
別のページには受刑者の証言が載っている。
「刑務所にいれば大体わかる、毎日生活をともにしていればわかる、まだまだ冤罪はありますよ」
by 2006taicho
| 2015-12-24 18:08
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