ブログトップ

隊長ブログ

カテゴリ:原発( 25 )

福島の嘘

2011年3月11日の午前中、私は東京湾を出港した船上にいました。
あの悪夢は、家について数時間後のことでした。

当時のブログではこんな感じでした
そしてその後もことあるたびに掲載してきました。
このブログに「原発」というカテゴリーを設けるほどになりました。
そうしてわかってきたのは、日米安保条約と原発は同じ構造上にあるということが書物などで気付かされました。
日米原子力協定などの条文は知らなかったとはいえ驚かされました。詳細














当時も書きましたが、これから日本は訴訟の国になると思います。
一つは福島周辺の子どもたちの甲状腺被ばくによる訴訟。
もう一つは、安倍さんのおかげで?発生する理不尽な政策に対する市民訴訟です。

つい最近では、国と沖縄の翁長知事の訴訟で、日本の司法判断の悪例として後世に残るような判決と裁判官の説諭がありました。
この裁判長の今後の人事異動先などが注目されるでしょうね。

司法機関である、検察が小泉政権時代に恩を売って以来、日本の司法は終わっています。
日本の裁判の有罪率99%ということが、いかに検察と裁判官が仲がいいかわかります。
彼らからしてみたら、無罪なんて期待するほうがおかしいのです。
詳細







[PR]
by 2006taicho | 2016-09-22 02:05 | 原発 | Comments(0)

3.11

福島原発事故は本当に地震と津波での事故だったのか?
そうじゃないだろう、という人たちがいることを知ってもいいと思います。





[PR]
by 2006taicho | 2016-02-14 16:19 | 原発 | Comments(0)

原発のうそ エネルギー寿命


何よりも必要なことはエネルギー消費を抑えること
エネルギーと寿命
人類を他の生物と区別して人類らしくしたものは火や道具の使用でした。そして、エネルギーの消費は人類の寿命にも密接に関係しています。図 16 に過去の日本のエネルギー消費量と寿命との関連を示します。
d0098363_015019.jpg


現在、日本は世界一の長寿命国になっていますが、100 年前は、日本人の平均寿命は 40 歳代でした。当時はまだ日本では電気すらろくに使えない時代でしたし、一人ひとりのエネルギー消費量も現在の私たちに比べれば 10 分の1ほどしかありませんでした。ただ、図 16 を細かく見れば、幾つか大切なことに気づきます。
第1に、利用できるエネルギー量が絶対的に少ないと人は長生きできないと言うことです。
第2は、絶対的に不足していたエネルギー消費量をわずかに増加させることができれば、寿命が飛躍的に延びるということ、
そして第3に、ある程度以上のエネルギー消費は寿命の延長に役に立たないということです。
1960 年代の高度成長期やバブル期を含めた 1990 年前後には、エネルギー消費は急激に伸びましたが、その期間における寿命の延びはほんのわずかでしかありません。今の日本では、生きることではなく、贅沢をするためにエネルギーが使われています。

地球の歴史と人類の歴史
地球は 46 億年前に誕生したといわれます。
誕生当初の地球は生命が根付くには過酷過ぎ、生命が誕生するまでには数億年の時の流れが必要でした。
40 億年前に生まれた生命は、おそらくは今の常識から言えば、生命と呼ぶにはあまりにも原始的なものだったでしょう。その後、様々な生物種が生まれ、そして滅びました。
人類と呼べるような生物種がこの地球上に誕生したのは400 万年前とも 600 万年前とも言われますが、地球や生命の歴史に比べれば、人類の歴史などいずれにしても 1000 分の 1 の長さでしかありません。
もし、地球の歴史を 1年として1月1日から時をたどれば、人類が発生したのは春も夏も秋も過ぎ、冬が来て、大晦日の午後になってからに過ぎません。
その人類は現在地球上で栄華を極めていますが、人類が今日のようにエネルギーを膨大に使い始めるようになったのは 18 世紀末の産業革命からで、それ以降わずか 200 年しか経っていません。
それを地球の歴史を 1 年と考える尺度に当てはめれば、大晦日の夜 11 時 59 分 59 秒にしかならず、残り 1 秒のことです。
その 200 年の歴史で人類が使ったエネルギーは人類が数百万年で使った全エネルギーの 6 割を超えます。

産業革命以降の生物の絶滅
そのため、地球の生命環境は危機に瀕しています。
命あるものいずれ死ぬのは避けられません。個体にしてもそうですし、種としての生物もそうです。
地球上には、これまでにもたくさんの生物種が生まれては滅んできました。数千万年前までこの地球を支配していたといわれる恐竜たちも、忽然と姿を消しました。
その原因は、宇宙からの巨大隕石の落下だという説もあれば、肉体が巨大化しすぎて生命を維持できなくなったとの説もあります。
しかし、恐竜たちからみれば、いずれにしても万やむをえない理由で絶滅に追い込まれたのでしょう。人類も一つの生物種として、いずれは絶滅します。ところが、図 17 に示すように、産業革命以降のエネルギー浪費と軌を一にして、人類は地球上に住む多くの生物種を絶滅に追い込んできました。
d0098363_021025.jpg


この絶滅は温暖化のためにもたらされたのではありません。
人類がエネルギーの浪費をしながら、地球の生命環境をさまざまな形で乱開発してきた結果です。それは今現在でもいっそうひどい形で続いています。


エネルギー消費の格差
ただし、地球の生命環境を破壊している罪は人類に等しくあるのではありません。
世界でエネルギーがどのように分配され使用されているかを図 18 に示します。
d0098363_02239100.jpg


一人当たりの消費量で言えば、最もエネルギーを消費している国と最もエネルギーを利用できない国とでは 1000倍の格差があります。また、私たち日本人一人
ひとりも世界平均の約2倍、アジア諸国に比べれば 10 倍から 100 倍のエネルギーを使っています。
また世界人口を四つにわけ、エネルギーをたくさん使う順番に「工業文明国
(いわゆる先進国)」、「工業文明追従国(いわゆる発展途上国)」、「第三世界の
半分」、「極貧の第三世界」としましょう。
それぞれのグループには、いずれも約16 億人の人間が含まれます。そしてそれぞれのグループが世界全体で使うエネルギーのどれだけの割合を使っているかを考えてみます。まず、「工業文明国」の人間が、エネルギー使用量全体の 68%を使ってしまいます。次に「工業文明追随国」が 17%を使い、世界人口の半数を占める第三世界の人々には、全体のわずか 15%しか残されません。
第三世界の中でも奪い合いがあり、強い方のグループが全体の 10%を使い、最
もエネルギーを使えない「極貧の第三世界」はわずか5%しか使えません。

世界の国々の平均寿命
図 16 は日本という一つの地域について、時間的なエネルギー使用量の変化を尺度として寿命がいかに変わるかを示しました。
同じことは、今日というある時刻の中での、世界各国のエネルギー使用量の違いを尺度にしても言えます。図 19 に世界各国のエネルギー消費量と寿命との関係を示します。
d0098363_0244738.jpg


上部に横に長く分布している「エネルギー浪費国家群」では、現在の日本がそうであるように、エネルギー使用量をいくら増やしても寿命を延ばすことはもはやできません。
逆に、図の左の軸周辺に「エネルギー窮乏国家群」として示した国々の中では、使用できるエネルギー量が絶対的に欠乏しているため、生命自身を維持できない国があります。
そうした国の中には平均寿命がいまだに 30~40 歳代の国があります。もし、そうした国で、エネルギー消費を少しでも増やすことができれば寿命は飛躍的に長くなりますが、残念ながら世界の政治の状況はそれを許しません。

環境破壊の責任はごく一部の「先進国」にある
種としての人類が地球環境を破壊してきて、今またそれを加速していることは確実です。
しかし、人類の内部を見れば、一方には生きることに関係ないエネルギーを厖大に浪費する国がある一方、生きるために必要最低限のエネルギーすら使えない人々も存在しています。
今この地球上には、11 億もの人々が「絶対的貧困(1日1ドル以下で生活し、食べるものがない、きれいな飲み水がないなど、生きていくのに最低限度必要なものさえ手に入れることのできない状態)」に喘ぎ、5億の人々が飢餓に直面しています。
「先進国」に住む私たちが贅沢な暮らしをすれば地球環境はますます悪化しますが、悪化に対処することができない貧しい国々の人々はますます苦況に追いやら
れます。


危機的な日本の環境
日本においては 1880 年代以降、50年で 10 倍になるような率でエネルギー
消費の拡大を続けてきて、現在、日本への日射量の総量に比べて約 0.6%のエネルギーを人為的に消費しています(図20 参照)。
d0098363_0274269.jpg


太陽から地球に届くエネルギーのうち、3 割は地球の大気表面で直接反射されてしまいますし一部は雲で反射され、地表に達するのはまた一部になります。
また、地球に達する太陽エネルギーのうちわずか 0.2%のエネルギーで、風、波、空気の対流など、私たちが自然現象と呼んでいる現象が起きています。
日本への日射量と比較するとそれはほぼ 0.66%になります。
つまり、今現在、私たちは日本で自然現象起こしているエネルギーとほぼ等しいエネルギーを人為的に使っていることになります。
もし、このままエネルギー消費の拡大を続けるならば、数年後には日射量の1%、2050 年には 10%、2100 年には太陽が日本に与えてくれているエネルギーと等しいだけのエネルギーを人為的に消費することになってしまいます。
そうした時代がどんな時代になるか人類には経験がありません。
またそれを予測できるような学問もありません。しかし、かりにその時代の日本においてまだ人が生きられたとしても、従来と同じスピードでエネルギーの浪費を続けるかぎり 2150 年には日射量の 10 倍、2200 年には 100 倍のエネルギーを使うことになってしまいます。
そのような未来に人類が生き延びられないことは当然です。エネルギーの浪費に慣れてしまった日本人にとって、エネルギー消費を抑えることは容易なことでありません。そのため、多くの日本人は消費を抑えることなど出来ない、もっと便利に暮らしたいと言います。しかし、できなければ、自らの生きる環境を失うだけです。


危機の顕在化はどこで
現在騒がれている地球温暖化問題は、地球全体で進行する危機を扱っています。
しかし、危機は地球全体だけでなく、個別地域的に起こってきました。日本で起きた数々の公害もそうでしたし、ヨーロッパの酸性雨もまた地域的に多大な被害を生じました。
核実験による放射能汚染にしても、もちろん全地球的な汚染もありましたが、実験場周辺での被害が深刻でした、同じことはチェルノブイリ原子力発電所の事故でもいえます。温暖化ということであれば、都市のヒートアイランド化も問題でしょう。
世界各国が、それぞれの国に降り注ぐ太陽エネルギーに比べて、どれだけのエネルギーを消費しているかを図 21 に示します。
d0098363_03712100.jpg


太陽からの入射エネルギーの 0.2%で自然現象が起きているのに対して、シンガポールのような非常に狭い地域を限定的に考えれば、すでに太陽エネルギーの3%を超えるエネルギーを人為的に使っています。
日本の国土は 37万 8000km2 あり、シンガポールや香港に比べれば、はるかに広い地域ですが、それでもすでに 0.17%に達しています。
もちろん、世界全体を見れば、エネルギーをほとんど使っていない国々もありますが、危機が顕在化するのは、図 21 に引いた黒の点線に近い国々でしょう。
日本という国も危機の最先端にいることが分かります。
地球温暖化問題が現在の最重要課題だと言っている人たちは、自分が関わっている課題だけしか見えなくなって、広い視野を忘れています。それは、「温暖化予測業界の論理でしか考えられなくなった」と彼ら自身が自戒を込めて書いている通りです。

少欲知足
いったい、私たちはどれほどのものに囲まれて生きれば幸せといえるのでしょう?
人工衛星から夜の地球を見ると、日本は不夜城のごとく煌々と夜の闇に浮かび上がります。建物に入ろうとすれば、自動ドアが開き、人々は階段ではなくエスカレーターやエレベータに群がります。
夏だというのに冷房をきかせて、長袖のスーツで働きます。そして、電気をふんだんに投入して作られる野菜や果物は、季節感のなくなった食卓を彩ります。
地球温暖化、もっと正確に言えば気候変動の原因は、日本政府や原子力推進派が宣伝しているように単に二酸化炭素の増加にあるのではありません。産業革命以降、特に第二次世界戦争以降の急速なエネルギー消費の拡大の過程で二酸化炭素が大量に放出されたことは事実ですし、それが気候変動の一部の原因になっていることも本当でしょう。
しかし、生命環境破壊の真因は、「先進国」と呼ばれる一部の人類が産業革命以降、エネルギーの膨大な浪費を始めたこと、そのこと自体にあります。
そのため、多数の生物種がすでに絶滅させられたし、今も絶滅されようとしています。地球の環境が大切であるというのであれば、二酸化炭素の放出を減らすなどという生易しいことではすみません。
すでに述べたように、人類の諸活動が引き起こした災害には大気汚染、海洋汚染、森林破壊、酸性雨、砂漠化、産業廃棄物、生活廃棄物、環境ホルモン、放射能汚染、さらには貧困、戦争などがあります。
そのどれをとっても巨大な脅威です。温暖化が仮に脅威だとしても、無数にある脅威の一つに過ぎませんし、その原因の一つに二酸化炭素があるかもしれないというに過ぎません。
日本を含め「先進国」と自称している国々に求められていることは、何よりもエネルギー浪費社会を改めることです。あらゆる意味で原子力は最悪の選択ですし、代替エネルギーを探すなどと言う生ぬるいことを考える前に、まずはエネルギー消費の抑制こそに目を向けなければいけません
残念ではありますが、人間とは愚かにも欲深い生き物のようです。
種としての人類が生き延びることに価値があるかどうか、私には分りません。しかし、もし地球の生命環境を私たちの子供や孫たちに引き渡したいのであれば、その道はただ一つ「知足」しかありません。一度手に入れてしまった贅沢な生活を棄てるには苦痛が伴う場合もあるでしょう。当然、浪費社会を変えるには長い時間がかかります。
しかし、世界全体が持続的に平和に暮らす道がそれしかないとすれば、私たちが人類としての叡智を手に入れる以外にありません。私たちが日常的に使っているエネルギーが本当に必要なものなのかどうか真剣に考え、一刻でも早くエネルギー浪費型の社会を改める作業に取り掛からなければなりません。

「原発のうそ」 小出裕章・著


足りるを知る、これを読んで頭に浮かんだのは「里山資本主義」という本。
地震などの災害にあったとき、都市部よりも田舎のほうが対応し易い。まあ、これは当たり前と言えば当たり前。都会は田舎くささを排除して生きようとする傾向が基本だからだ。
つまり、そろそろそのへんから変えていかなければいけないということか。
都市と言う言葉との中間に、「地方都市」というのがある。「田舎」はそのあとなのかもしれない。
「不便を楽しむ」という認識が必要な時期になってきたのかもしれない。
そういう芽はすでに芽生えていると思う。スローライフとか呼ばれて定年退職組がやっているライフスタイルが代表的。
レンジでチンして、という便利さは本当は豊かでも何でもない、という認識。
急がない時間、時間をかける、時間を楽しむという感覚意識が必要なんだろうと思う。
[PR]
by 2006taicho | 2015-06-09 00:43 | 原発 | Comments(0)

原発のうそ 温暖化と二酸化炭素の因果関係



温暖化と二酸化炭素の因果関係

d0098363_6281418.jpg

温暖化は19世紀初めから人類による化石燃料の消費が急速に進み、二酸化炭素放出が激増したのは、第二次世界戦争後、つまり 1946 年以降のことです(図 11)参照)。

d0098363_6284224.jpg

では、現在観測されている地球の温暖化という現象はいつから起きているのでしょう?
1800 年です(図 12)参照)。



つまり人類による二酸化炭素放出が始まる前から温暖化の現象は起きており、これは地球の自然の現象です。
19 世紀と20 世紀前半の気温の上昇速度は 100 年に 0.5 度程度でした。それが 20 世紀後半になって先に述べた様に 100年に 1.3度程度に上昇率が増えているようにみえます。そのため、二酸化炭素を悪者視する IPCC すら 20世紀後半の温暖化に限って二酸化炭素が主因だと主張しているにすぎません。


しかし、20世紀後半の温暖化に二酸化炭素の影響があるとしても、地球上の生命環境を破壊してきた原因は、多様な人間活動そのものにあります。

二酸化炭素放出など人類の諸活動のただ1つに過ぎませんし、生命環境破壊の原因のすべてを二酸化炭素に押し付けることはもともと間違っています。その上、二酸化炭素濃度の増加が地球温暖化の原因だとする主張とは、逆の結果を示しているデータもあります(図 13))。

d0098363_6344348.jpg

この図は、よく議論されているように、二酸化炭素の長期的上昇傾向を差し引いた上でのもので、二酸化炭素濃度の上昇自体は前提にされています。しかし、それでもなお気温が上がった後に二酸化炭素濃度が増え、気温が下がると二酸化炭素濃度が減る、つまり、気温が上下することで二酸化炭素が上下していることを示しています。
どうしてそうなるかも説明できます。
すなわち、先に書きましたとおり、地球上の二酸化炭素はそのほとんどが海水中に溶け込んで存在していています。気温が上がることで、海水の温度が上がり、海水に溶け込んでいた二酸化炭素が大気中に出てくることは当然です。このように、地球の大気温度の変化、二酸化炭素濃度の変化は、お互いに影響し合う関係にあるし、その要因も複雑です。

d0098363_6575792.jpg

地球温暖化の要因には自然要因もあるし、人為要因もある自然は大変複雑な系です。その地球の温度も地球誕生以降大きな変動を繰り返してきました。人類などまだ誕生する以前には現在よりさらに高温だった中生代があり、恐竜たちが生きていました。新生代に入っても、大きな氷河期を4回も経験し、現在は4番目の氷河期が終わった温暖期にあります。現在問題にされている最近 150 年間の温度増加など高々0.8 度程度でしかありませんが、それぞれの氷河期とそれが終わった温暖期の気温には約 10 度もの違いがありました(図 14)参照)。


それでも、北極の白熊を含め、こんなこ 図14 氷河期と間氷期の環境図1とで絶滅はしませんでした。現在、北極の白熊などが絶滅の危機に瀕しているのは温暖化のためではなく、人類が地球上にはびこりすぎ、他の生物の生命環境を侵食してきたからです。
地球の温度に影響する原因のうち、人為的要因でない自然の要因にも、地球の歳差運動が関係するミランコビッチサイクル、太陽活動による変動サイクル、エル・ニーニョやラ・ニーニャなど地球自体の要因、さらには火山の爆発などの要因もあり、大気中の二酸化炭素濃度も気温も長い周期、短い周期、あるいは大幅小幅にと多様な変化をしてきました。観測している地球の平均気温も大気中の二酸化炭素の濃度もそれらすべてが関係しながら変動しています。


d0098363_659593.jpg


図 15に示すように、ここ数年は、温暖化どころか地球は寒冷化しています。IPCC の関係者は、これは小さな変動でいずれまた温暖化に向かうと主張していますが、そうかも知れないし、そうでないかも知れません。人為的な要因が地球を温暖化させている可能性は高いと私は思いますし、「予防原則」を適用して、その温暖化を防止しようということも必要かもしれません。しかし、すでに述べたように、それは科学の議論ではなく政治的、政策的な議論の範疇に入ることです。

人類の諸活動が引き起こした災害には、大気汚染、海洋汚染、森林破壊、酸性雨、放射能汚染、さらには貧困、戦争などがあり、温暖化はそのうちの一つに過ぎません。
そしてその温暖化の原因の一つの要因に二酸化炭素があるというに過ぎません。それにもかかわらず、二酸化炭素の放出を減らすことが、何よりも大切だと多くの人が思わされています。地球温暖化問題は現時点では、科学的な根拠が薄弱なまま、政治的に引き回されています。

「原発のうそ」 小出裕章・著



人間の近代化の歴史はたかだか70年なんですね。
ただ、その経済発展のスピードがすごいということ。
co2の急激な増加はやっぱり、1945年戦後からなんですね。
しかし、一方で温暖化は1800年初頭から。100年以上前から始まっている。

小出氏の主張は、地球の温暖化は二酸化炭素が原因だということを鵜呑みにしないこと、否定はしないが、根拠が希薄だと、それを政治的に使われていると指摘。
確かに温暖化=イコール二酸化炭素というふうにわれわれの頭に刷り込まれている。
[PR]
by 2006taicho | 2015-06-08 07:02 | 原発 | Comments(0)

原発のうそ 海温め装置


厖大な温廃水

今日 100 万 kW と呼ばれる原子力発電所が標準的になりましたが、その原子炉の中では 300 万 kW 分の熱が出ています。その 300 万 kW 分の熱のうちの100 万 kW を電気にしているだけであって、残りの 200 万 kW は海に捨てています(図67)参照)。

d0098363_23334644.jpg


私が原子力について勉強を始めた頃、当時、東大の助教授をしていた水戸巌さんが私に「『原子力発電所』と言う呼び方は正しくない。
あれは正しく言うなら『海温め装置』だ」と教えてくれました。

300 万 kW のエネルギーを出して 200 万 kW は海を温めている、残りの 3 分の 1 を電気にしているだけなのですから、メインの仕事は海温めです。そういうものを発電所と呼ぶこと自体が間違いです。

その上、海を温めるということは海から見れば実に迷惑なことです。
海には海の生態系があって、そこに適したたくさんの生物が生きています。100 万 kW の原子力発電所の場合、1 秒間に 70 トンの海水の温度を 7 度上げます。東京にある河川では、荒川で 1 秒間に 30 トン、多摩川で 40 トンしか水量がありません。
日本全体でも、1 秒間に 70 トンの流量を超える川は 30 に満ちません。
原子力発電所を造るということは、その敷地に忽然として暖かい大河を出現させることになります。
また、7度の温度上昇が如何に破滅的かは、入浴時のお湯の温度を考えれば分かるでしょう。皆さんが普段入っている風呂の温度を7度上げてしまえば、決して入れないはずです。
しかし、それぞれの海には、その環境を好む生物が生きています。その生物たちからみれば、海は入浴時に入るのではなく、四六時中そこで生活する場です。その温度が7度も上がってしまえば、その場で生きられません。

ライフサイクル全体を評価したと言っている原子力推進派の評価では、この温廃水についての考慮はありません。
でも、地球上の二酸化炭素の大部分は海水に溶けており、海水を温めれば、二酸化炭素が大気中に出てきます。
ビールやコーラなど炭酸飲料を温めれば、二酸化炭素がぶくぶくと泡になって出てくるのと同じです。
では、1 秒間に 70 トンの海水を 7 度温度を上げると一体どれだけの二酸化炭素が大気中に追い出されてくるでしょうか? 例えば、15℃の海水を 22℃に温める場合を考えてみましょう。

15 ℃における二酸化炭素の水への溶解度は 2.00g-CO2/kg-water 、 22 ℃のそれは1.62-CO2/kg-water です 8)。そのデータを下に計算すると、それだけで 1kWh 当り 100g になります。
ライフサイクル全体を考えて 22g だなどと言っていた原子力推進派の主張が如何に馬鹿げているか分かります。
もちろん、太陽光にしても風力にしても海を温めることなどありませんので、この効果を考慮に入れただけで、原子力はあらゆる自然エネルギーに比べて二酸化炭素の放出量が多くなります。

「原発のうそ」 小出裕章・著



恐ろしい指摘です。
海が7度も温められているなんて。
これじゃあ、漁業は壊滅でしょう。
関係ないかもしれないけど、確かに魚が釣れなくなっています。
それは実感があります。
それと、釣れる魚の時期がずれています。
[PR]
by 2006taicho | 2015-06-07 23:43 | 原発 | Comments(0)

原発のうそ 核のゴミ


これから始まるごみ問題
廃物を生み出す全体像


原子力発電所を動かすためには、原子力発電所だけがあればいい訳ではありません。そのために必要な一連の工程を次頁の図 12 に示します。

d0098363_22473671.jpg


原子炉を動かそうとすれば、まずウラン鉱山でウランを掘ってこなければならず、その段階からすでに厖大な放射能の廃物を生じます。掘ったウランは原子炉で燃えるように濃縮し、加工したりしなければなりませんが、その過程でもまた廃物が出ます。
さらに、原子炉を動かせばその段階でもたくさんの廃物が出ると同時に、使用済みとなった燃料は厖大な死の灰の固まりとして、人類の未来に大きな負債となります。

現在日本には 53基、4700 万 kW 分の原子力発電所が動いており、私たちは
電気が欲しいといって原子力発電を動かしながら、毎年、広島原爆約 5 万発分
に相当する死の灰を生み出しています。
日本で原子力発電が始まって以降、原子力発電はたしかに 5 兆 kWh を超える電力を生み出しました。
しかし、その陰では不可避的に死の灰も生み出し続け、すでにその総量は広島原爆 100万発分に達しています(図 13 参照)。

d0098363_2355394.jpg



正直に言うと、私自身その恐ろしさを実感できません。
日本人の一人ひとりが等しくこの放射能に責任があるとは思いませんが、もし原子力の恩恵を受けている今の世代の人間が等しく責任を負うとするならば、セシウム 137の減衰を考慮してなお、わずか 170 人で広島原爆 1 発分の放射能に責任を負うことになります。

人類初の原子炉が動き出したのが 1942 年でした。
それ以降すでに 60 年以上の歳月が過ぎ、その間死の灰を死の灰でなくそうと研究が続けられてきましたが困難はますます増えるばかりで、一向にその方法が視えないままです。
そうなれば、できることはただ1つ、死の灰を人類の生活環境から隔離することしかありません。放射能には、それぞれ寿命があり、一口に「死の灰」といっても、寿命の長いものも短いものもあります。
代表的な核分裂生成物、セシウム 137 の半減期は 30 年です。それが 1000 分の 1 に減ってくれるまでには、300 年の時間がかかります。その上、原子力発電が生み出す放射能には、もっとずっと長い寿命を持った放射能があります。たとえば、プルトニウム 239 の半減期は 2 万 000年で、それが 1000 分の 1 になるまでには 24 万年かかります。
原子力発電所の使用済み燃料(あるいはそれを再処理して生じる高レベル放射性廃物)は100 万年に渡って人間の生活環境から隔離しなければならない危険物です。
日本では現在、青森県六ヶ所村に建設された貯蔵施設に、およそ 50 年間を目処に一時的に貯蔵して当座をしのいでいます。そして、2000 年 5 月に「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」が成立し、その廃物は、深さ 300~1000mの地下に埋め捨てにする方法が唯一のものと決められました。
しかし、どんなに逆立ちして考えたところで、100 万年後の社会など想像できる道理がありません。もちろん現存しているすべての国は消滅しているでしょうし、人類そのものも絶滅しているかもしれません。その頃にもし人類がこの地球上に存在していれば、地下 1000mなど、ごく普通の生活環境になってしまっているかも知れません。
結局、人類は原発が生み出す廃物の処分方法を知らないまま今日まで来てしまいました。
いまだにその処分法を確定できた国は世界に1つもありません。

ウラン残土すら始末できなかった日本原子力の推進派は、原子力の場合、発電所に搬入しなければならない燃料の量が他の発電方式に比べて圧倒的に少ないと主張します。しかし、元をたどってウラン鉱山まで行けば、図3に示したように 240万トンもの残土(放射能を持った廃物)が鉱山周辺に捨てられています。

日本では 1955 年末、人形峠でウランが発見され、その後約 10 年にわたって試掘が行われました。その間、取り出されたウランはわずか 85 トン、100 万kWの原子力発電所 1 基の半年分の運転を支えるにも足りないほどのわずかな量でした。
結局、人形峠周辺には採算がとれるようなウランは存在していないことが分かり、鉱山は閉山しました。一方、試掘によって掘り出されたウラン鉱石混じりの残土は、人形峠周辺の民有地を中心に合計で約 45 万 m3、ドラム缶に詰めれば 225 万本分が野ざらしにされました。
1990 年に一度は住民と協定書を結んで残土の撤去を約束した動燃(動力炉核燃料開発事業団、現日本原子力研究開発機構)は、撤去先がないことを理由に放置を続けてきました。
住民は苦悩の果てに、残土の撤去を求めて裁判を起こしました。2002 年 5 月になって地裁が動燃に 3000m3分の残土を撤去するよう命ずる判決を出し、動燃は控訴しましたが、高裁も最高裁も原判決を支持して動燃の敗訴が確定。動燃は残土を撤去せざるをえなくなりました。
動燃は撤去を先延ばししながら、住民の懐柔を図りましたが、住民は強固な意志を貫徹して崩れませんでした。
結局、動燃は、この残土を日本国内ではなんらの始末もつけることが出来ずに、残土のうちウラン濃度の高い一部、290m3 の残土を「鉱石」として米国の製錬会社に搬出しました。何と、その費用は6億 6000 万円、仮に製錬してウランを得たとしてもその価値は高々100 万円です。
このような行為は到底商取引ではありませんし、自分で始末のできないごみを外国に輸出する公害輸出の典型です。
おまけに、裁判で撤去を命ぜられている残りの残土はいまだに行き場のないまま不法に住民の土地に置かれたままです。さらに 45 万 m3に及ぶ残土はどうすることもできません。

こうして、原子力開発の最初に生じる残土すら、始末ができないままです。ましてや、100 万年の隔離を要する高レベル放射性廃物など、一体、どうやって始末するというのでしょうか? なすべきことは簡単です。自分で始末を付けられないようなごみを生む行為は、やめてしまえばいいのです。
「原発のうそ」 小出裕章・著



d0098363_232030100.jpg

原子力に夢と希望を抱き、研究を進めてゆくうちにその恐ろしさを知り、原子力の研究者でありながら反原発を訴え続けた気骨の人。当然、周囲の冷ややかな目は止まず、出世もあり得ませんでした。
今年の3月に定年を迎え京大を退官しました。
[PR]
by 2006taicho | 2015-06-07 23:00 | 原発 | Comments(0)

プルサーマルのうそ


プルサーマルは追い込まれた道
本来の核燃料サイクルの破綻とごみ処理としてのプルサーマル
d0098363_2274644.jpg
高速増殖炉は実現しません。また、軽水炉の再処理すら実現しませんし、高速増殖炉の核燃料サイクルなど、夢のまた夢でしかありません。
しかし、日本はこれまで軽水炉の使用済み燃料を英仏両国に送って再処理してもらってきました。そのために分離されてしまったプルトニウムをすでに 43 トン保有しています(図6参照)。




d0098363_2243962.jpg
日本は使い道のないプルトニウムを保有しないと国際公約しており、何が何でも
このプルトニウムを始末しなければならなくなりました。そのために苦し紛れに
考えられたのがプルトニウムを熱(サーマル)中性子炉で燃やすという「プルサーマル」計画です。プルトニウムは高速増殖炉で燃やさないかぎり資源的な意味がありません。熱中性子炉で燃やしてしまうことはむしろ資源を捨ててしまうことになるだけです。
(図7参照)


プルトニウムは猛烈な毒物
もともとプルトニウムは人類が遭遇した最強の毒物といわれるほどの猛毒物質であり、100 万分の 1 グラムで人に肺がんを起こさせます。
甘い基準で作られた日本の法令の年摂取限度でも、一般人が 1年間に吸入が許される量は 0.05μg です。
玄海3号炉では、その猛毒なプルトニウムを2トンも炉心に装荷します。


MOX 燃料を使う場合の安全上の問題


U-235も Pu-239も原爆材料となったように、核分裂する性質を持っていることでは同じです。
しかし、核分裂のしやすさ(核分裂断面積)、核分裂時に発生する中性子の数、ゆっくりと放出される中性子(遅発中性子)の割合などが異なるため、ウランを燃やすために設計された軽水炉でプルトニウムを燃やそうとすれば、様々な問題が起こって安全性が低下します。
国や電力会社などは、もともと原子炉の中では U-238 から変わった Pu-239 が燃えているので、はじめから Pu-239 を燃料に加えても問題ないかのように宣伝しています。
しかし、原子炉内で U-238 から変換した Pu-239 は燃料ペレット内で均質に分布するのに対して、ウランとプルトニウムを混合して混合酸化物(MOX)燃料を作る時には、ウランとプルトニウムは均質に混ざりません。
そのため、燃える時に燃えむらが出来ます。だからこそ、国や電力会社も、軽水炉でMOX燃料を遣う場合には、炉心全体の3分の1以下にすると決めたのです。
MOX燃料を使う時に生じる安全上の問題を列記します。

核的な問題
1.熱中性子核分裂断面積がウラン 235 より大きい
2.熱中性子吸収断面積がウランより大きい
3.共鳴エネルギー領域での熱中性子核分裂断面積もウラン 235 より大きい
4.遅発中性子割合がウランより少ない
これらすべての性質は平常時の原子炉の運転制御を難しく燃料棒の燃えむらを作りやすくし、平常時・事故時の燃料棒の破損発生の可能性を増加させるとともに、事故時の対応を難しくします。

d0098363_22173038.jpg




物性上の問題
1.Pu 含有率が多くなると燃料ペレットの融点が低下する
2.Pu 含有率が多くなると熱伝導率が低下する
3.Pu スポットが多くなるとガス状の核分裂生成物の放出率が増加する
これらすべての性質は燃料ペレットの温度を増加させる方向に働き、また、燃料棒内圧を増加させ平常時、事故時の燃料棒破損の可能性を増加させます。


MOX 燃料の経験はない

d0098363_22222426.jpg
国や電力会社は、前頁の図を示して、MOX 燃料には充分な経験があるかのように宣伝しています。
しかし、世界には現在 450 基近い原発が動いています。そのうち、MOX 燃料を過去一度でも使ったことがある原発が55 基だと言うのです。わずか1割程度でしかありません (図8参照)。
日本に限れば、53 基の原発がありながら、MOX 燃料を使った経験があるのは、美浜1号炉で4体、敦賀1号炉で2体のたった6体(!)の集合体でしかありません。美浜1号炉には 121 体の集合体が、敦賀1号炉には 308 体の集合体が装荷されていて、すでに 1970 年から 35 年も動いています。すでに使用された集合体の数は 4000 体ほどになっているはずです。
そのうち MOX 燃料はたったの 6 体だけと言うのです。このことは世界全体の原発で見ても同じです。世界全体の原発で使われた燃料集合体は、50 万体を超えているはずですが、使われた MOX 燃料は約 4500 体でしかなく1%にも満ちません。


経験のないプルトニウム富化度と燃焼度

おまけに玄海3号炉で使われようとしている MOX 燃料は過去のどんな経験にも基づかない危険なものです。
一つは燃料の中に何%のプルトニウムを混ぜるかと言う「富化度」で、もう一つは燃料を燃やす程度を表す「燃焼度」です。
普通の原子力発電所では、核分裂性のウランの割合を4%程度に高めたウラン(低濃縮ウラン)を燃料としています。 燃料の中に含まれている核分裂性のプルトニウムやウランの割合が高ければ、その燃料は燃えやすいことになりますし、燃料を使い切るまでの時間が長くなる、つまり長く燃やすことができるようになります。フランス・ドイツなど海外でのMOX燃料の場合、ウラン燃料の経験とあわせる
ために、プルトニウムの富化度を低濃縮ウランと同程度にしてきましたが、玄海3号炉の MOX 燃料では、6.1%と経験したことのない富化度にし、燃焼度もこれまた経験したことのない 45,000MWD/ton まであげることにされています.



安全余裕を食いつぶす


d0098363_22275772.jpg
原子力発電所はもともと危険なものであって、MOX を使うことで初めて危険になるのではありません。MOX を使うか使わないかにかかわらず、もともと膨大な危険を抱えています。仮に玄海3号炉での MOX 燃料の使用を阻止できたとしても、玄海3号炉が安全になるわけではありません。
ただし、どんなものでも、ものを作る時には余裕を持たせて作ります。それでも考えていたとおりの余裕がなくて、事故を起こすことがあります。普通の原発でも事故が起きるのはそのためです。しかし、MOX 燃料を使うことは普通のウラン燃料を使う場合に比べて確実に危険を増加させます。そのことを専門的には「安全余裕」を低下させるといいます。せっかく余裕を見ながら考えて原発を作ったのに、
その安全余裕を食いつぶすことになります(図9参照)。


犠牲を払っても資源的な意味がない

d0098363_22311018.jpg
軽水炉は増殖炉でないし、原子炉内で生み出される核分裂性プルトニウムの量は、燃やした燃料の約3割しかありません。従って仮にその全量をリサイクルして使うことができたとしても、資源の量が最大で3割増えるだけです(図10 参照)。すでに述べたように、もともとウランは貧弱な資源であり、3割程度増えたところで資源的な意味はありません。



プルサーマルには経済性もない

日本には 1977 年に当初計画「210 トン/年」で運転を開始した東海再処理工場があります。その再処理工場で 2005 年 9 月までに再処理した使用済核燃料は累積で 1089 トン、稼働率は 20%にもなりません。
現在、青森県六ヶ所村では年間 800 トンの使用済燃料を処理する計画の再処理工場が試験運転に入っています。東海再処理工場がそうであったように、その工場が計画通りに運転できることなど決してありませんが、仮に計画通り 40 年にわたって順調に工場が稼働したとしても、処理できる使用済核燃料は総量で 3 万 2000 トンです。そして、この工場の運転に必要となる再処理費と MOX 燃料加工費の合計は、国や電力会社による甘い見積もりで 12 兆 1900 億円です。そうすると、使用済核燃料1トン当たりの再処理費用は 4 億円に達します。これ迄、日本の電力会社は英国・フランスに再処理を委託してきました
が、その費用は 1 トン当たり2億円程度です。こうまでして六ヶ所再処理工場を稼働させ、さらに再処理して得られるプルトニウムと燃え残りのウラン 235 の全量を MOX 燃料にリサイクルしても、できる燃料は総量でも 4800tHM。その相当分にウランを購入して充てるとすれば、わずか 9000 億円で済んでしまいます。1兆円に満たない利益のために、12 兆円を超える資金を投入する企業など一体どこにあるのでしょうか?

ババを引かされる九州電力
d0098363_22362479.jpg
本心でいえば、誰もプル・サーマルなどやりたくありません。それでも「余剰プルトニウムはもたない」という日本の国際公約を守るためには、溜まり続けるプルトニウムをどうしても始末しなければならない事態に追い込まれました。結局、電力会社が採算に合わないプル・サーマルを引き受けさせられることになりましたが、沸騰水型炉(BWR)の盟主である東京電力と、加圧水型炉(PWR)の盟主である関西電力はいくつかのトラブルによってプル・サーマルを実施できない状態になっています。そこで、ババを引かされることになったのが、九州電力や四国電力などの弱小電力会社です(図 11 参照)。
その上、MOX 燃料の再処理は現在試運転中の六ヶ所再処理工場では行うことができず、第2再処理工場の建設待ちになります。しかし、六ヶ所再処理工場すら、まともに運転される可能性はほとんどありませんし、第2再処理工場など全く見通しのないものです。そうなれば、MOX 燃料を使った使用済み燃料は原子力発電所の敷地に貯め置かれる以外ありません。

「原発のうそ」 小出裕章・著

[PR]
by 2006taicho | 2015-06-07 22:39 | 原発 | Comments(0)

核燃料サイクルのうそ


高速増殖炉は動かせてはならないし、動きもしない
経済的にも技術的にも成り立たない

ウラン資源が少ないために出て来たのが、高速増殖炉を中心とする核燃料サイクル計画でした。
一言でウランといっても2種類あり、今日の原子力発電で燃料として利用できるウランはわずか 0.7%の「燃えるウラン(U-235)」だけです。残りの 99.3%のウランは核分裂性を持たないため、「燃えないウラン(U-238)」と呼ばれます。

原子力に夢を託す人々は今日の原子炉では燃料として利用できないU-238 を燃えるプルトニウム(Pu-239)に変換することによって、資源の量を飛躍的に増加させるというのでした。

そのために必要なものが、高速増殖炉と核燃料サイクルです。
原子力を意味のあるエネルギー源とするためには、どうしてもそうすることが必要です。
そのことは原子力(核)開発の当初から分かっていたので、米国を含め核先進国は一度は高速増殖炉路線に足を踏み込ました。
世界で一番初めに原子力発電に成功したのは EBR-1 と呼ばれる高速炉で 1951 年 12 月のことでした。ところが、高速増殖炉は技術的、社会的に抱える困難が多すぎて、一度は手を染めた世界の核開発先進国はすべてが撤退してしまいました。

日本の原子力開発利用長期計画(以下、長計)による高速増殖炉実現の見通し。
高速増殖炉の開発計画に初めて言及されたのは 1967 年の第 3 回長計でした。
その時の見通しによれば、高速増殖炉は 1980 年代前半には実用化されることになっていました。
この見通しが当たっていれば、今から 20 年以上も前に高速増殖炉が実用化されていたことになります。
ところが実際には高速増殖炉ははるかに難しく、その後、長計が改定されるたびに実用化の年度はどんどん先に逃げていきました。1987 年の第7回長計では「実用化」ではなく、「技術体系の確立」とされ、さらに 2000 年の第9回長計では、ついに数値をあげての年度を示すことすらできなくなってしまいました。
10 年経つと目標が 10 年先あるいはもっと先に逃げていくような計画は決して実現しません。


実現したところで、
エネルギー問題の解決には役立たない

高速増殖炉の燃料は天然には存在しないプルトニウムであるため、それは自分自身で作り出す以外にありません。1基の高速増殖炉が動き出したとし、それが次の高速増殖炉を動かし始めるのに足りるだけのプルトニウムを生み出すのに必要な時間の長さを「倍増時間」と呼びます。電力会社の甘い試算でも「倍増時間」は 90 年で、そのようなエネルギー源は役に立ちません。そんなものに、すでに日本は 1 兆円を超える投資をしてきてしまいましたし、今後更なる投資をしようとしています。

プルトニウムの循環は自由な社会を破壊する

今日日本で原子力といえば、ほとんど人は原子力発電を思い浮かべるでしょう。
しかし、もともと核燃料サイクルと呼ばれるすべての技術は核兵器開発のために開発されました。
第2次世界戦争のさなか、米国はマンハッタン計画と呼ばれる原爆製造計画を立ち上げました。

d0098363_15584781.jpg



人里離れた地に秘密都市を建設し、5万人の科学者、技術者を動員、総額 20 億ドル(1940 年の為替レートで換算して、86 億円。1941 年の日本の一般会計歳入も 86 億円であった)の資金を投入して原爆の開発に当たりました。
結局、1945 年の終戦の時点までに米国は3発の原爆を完成させましたが、うち1発が広島に落とされた
ウラン原爆、2発はプルトニウム原爆でした。そのうちの1発は人類初の原爆となってニューメキシコ州の砂漠で炸裂したトリニティ原爆、もう1発が長崎原爆となりました。
燃えるウランの濃度を高める「濃縮」という作業は、広島型のウラン原爆を作るための技術でした。
また、原子炉の中で燃えるウラン(ウラン 235)を燃やすと、そばにある燃えないウランが自然にプルトニウムに姿を変えます。それを「再処理」によって取り出すことで長崎原爆は作られたのでした。
現在、米国がイラク・イラン・朝鮮などを「悪の枢軸」と呼んで非難しているのは、それらの国が「濃縮」や「再処理」技術を開発しようとしているとの理由からです。

憲法で軍隊を禁じたはずの日本はすでに世界第2位の軍事大国となり、「自衛」隊が重装備で海外に出かけていく国となっています。
また、日本がやるのは「平和」利用だから問題ないと言いながら、着々と核開発の実績も積み上げてきました。
そして、現在の日本政府の公式見解は「自衛のための必要最小限度を越えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。したがって、右の限度にとどまるものである限り、核兵器であろうと通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」(1982年4月5日の参議院における政府答弁)というものです。

特に、「個人としての見解だが、日本の外交力の裏付けとして、核武装の選択の可能性を捨ててしまわない方がいい。保有能力はもつが、当面、政策として持たない、という形でいく。そのためにも、プルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」という外務省幹部の談話は、日本が原子力から足を洗えない本当の理由を教えてくれています。

プルトニウムは後にもう一度述べるように、100 万分の 1 グラムの微粒子を吸い込んだだけで肺がんを誘発するという超危険物です。
そして数 kg あれば原爆が作れます。高速増殖炉は、そのプルトニウムを数トンの単位で内包し、核燃料サイクルはそのプルトニウムを社会の中に循環させようとするものです。

かつて、ドイツの哲学者ロベルト・ユンクは原子力を利用するかぎり、国家による規制の強化は必然であり、国は必然的に「原子力帝国」と化して庶民の自由が奪われると警告しました。
高速増殖炉核燃料サイクルを含め、原子力を利用することそのこと自体が自由な社会を破壊します。

「原発のうそ」 小出裕章・著


[PR]
by 2006taicho | 2015-06-07 16:08 | 原発 | Comments(0)

原発はco2を出さないというウソ



原子力発電もまた大量の二酸化炭素を放出する

原子力とはウランやプルトニウムの核分裂現象を利用します。核分裂現象は、通常の物が燃える場合に二酸化炭素が出る現象とは異なります。そのため、日本の国や電力会社は「原子力は二酸化炭素を出さず、環境にやさしい」と宣伝してきました。ただし、その宣伝は、最近では「原子力は発電時に二酸化炭素を出さない」に微妙に変わってきています。何故でしょう?

原発の場合、1年間に約 70 億 kWh の電気が生み出されます。しかし、この原子炉を動かそうと思えば、「ウラン鉱山」でウランを掘ってくる段階に始まり、それを「製錬」し、核分裂性ウランを「濃縮」し、原子炉の中で燃えるように「加工」しなければなりません。そのすべての段階で、厖大な資材やエネルギーが投入され、厖大な廃物が生み出されます。さらに原子炉を建設するためにも厖大な資材とエネルギーが要り、運転するためにもまた厖大な資材とエネルギーが要り、そして、様々な放射性核種が生み出されます。これら厖大な資材を供給し、施設を建設し、そして運転するためには、たくさんの化石燃料が使われざるを得ません。結局、原子炉を運転しようと思えば、もちろん厖大な二酸化炭素が放出されてしまいます。この事実があるため、国や電力会社も「発電時に」と言う言葉を追加せざるを得なかったのでした。しかし、「発電時に」と言うことが原子力発電所を動かすことを示すのであれば、原子力電所の建設にも運転にも厖大な資材や化石燃料を必要としているのですから、その宣伝もまた正しくありません。その上、たしかに核分裂現象は二酸化炭素を生みませんが、その代わりに生むものは核分裂生成物、つまり死の灰です。二酸化炭素は地球の生命環境にとって必須の物質ですが、核分裂生成物(死の灰)はいかなる意味でも有害な物質です。二酸化炭素を生まないとの理由だけを強調して、死の灰に目をつぶる議論はもともと間違っています。
「原発のうそ」小出裕章・著

[PR]
by 2006taicho | 2015-06-07 10:18 | 原発 | Comments(0)

石炭や石油はなくなるからというウソ


貧弱だったウラン資源
石油をはじめとする化石燃料は地下に眠る資源であり、それを地下から掘り出して使っていけば、いずれなくなってしまうことは当然です。そうした資源を「再生不能資源」と呼びます。しかし、だからと言って「化石燃料がなくなるから原子力」ということにはなりません。なぜなら原子力の燃料であるウランもまた「再生不能資源」だからです。そうであれば、次に考えるべきことは、化石燃料の資源量と原子力の燃料であるウランの資源量との比較です。その点を図2に示します。
d0098363_9395771.jpg


d0098363_940726.jpg

「再生不能資源」のうちもっとも資源が多いのは「高品位炭」、つまり石炭です。次に多い資源も「低品位炭」、また石炭です。次に多い資源に「オイルシェール」や「タールサンド」など、現在では使いにくいため利用されていない資源があります。さらに現在の私達の文明がどっぷりと依存している「石油」、使いやすいために最近急激に使用量が増加してきた「天然ガス」もあります。これらがすべて「化石燃料」ですが、原子力の燃料であるウラン資源は一番右にある小さな四角しかありません。多くの人々が抱いている幻想と違って、ウラン資源は石油に比べても数分の1、石炭に比べれば 100 分の1しかないという大変貧弱な資源なのでした。事実をありのままに表現するのであれば、「化石燃料がなくなるから原子力」ではなく、「ウランは化石燃料よりはるかに早く枯渇する」ということになります。そんな原子力に人類の未来を託すことなどもともと馬鹿げたことでした。今日の世界で使われているエネルギー量を図の右上に小さな四角で示しましたが、かりに究極埋蔵量の全てを利用できるとすれば、石炭だけで現時点での使用量の 1000 年分あります。
また、天然ガスも最近になって相次いで有望な資源が発見され、天然ガスだけでもおそらく人類の 1000 年分の消費量をまかなえるという推定もあります。1000 年といえば、変化の激しい現代の世界では、とうてい予想できないほど遠い未来です。すなわち、予想できる限りの未来においてエネルギー資源が枯渇する心配はありません。ただし、重要なことは、資源の枯渇ではありません。問題は、厖大にあるエネルギー資源を人類が好き放題に使っていくと、地球の生命環境がどうなるかということです。
「原発のウソ」小出裕章著より


d0098363_14211184.jpg
 小出 裕章(こいで ひろあき、1949年8月29日 - )
 日本の工学者(原子力工学)。
 元京都大学原子炉実験所助教。
 京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻助教
 2015年3月定年退職 評論家。



[PR]
by 2006taicho | 2015-06-07 09:56 | 原発 | Comments(0)

おかしいことはおかしいと言う